年代 (年月日) | 行政区域の変遷史 |
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青銅器時代 | 馬韓 考証資料によれば、ハンバッ地域はたいてい先史時代である新石器時代以降私たちの先祖が暮らし始め、青銅器時代に達して部族国家馬韓の辺境に属した。 |
三国時代 (3世紀前後) |
百済雨述郡 百済が馬韓を征服して公州に遷都して雨述郡と呼び、影響力を最も多く行使し、三国全域で軍事の要衝地になった。 |
統一新羅時代 (717年) |
比豊郡 新羅が三国統一を成し遂げて新羅30代文武王が州・郡・県を再整備することによって比豊郡に属することになった。 |
高麗時代 (1017年) |
公州牧・公州郡 高麗第8代顕宗9年に州・郡・県の改編があったが、この時には公州郡の傘下にあった。 |
朝鮮時代 (1413年) |
懐徳郡 李氏王朝が起こり、王権確立のために太宗13年全国を八道として忠清道になり、懐徳郡、鎮岑郡に改正、別名大田(ハンバッ)とした。 |
年代 (年月日) | 行政区域の変遷史 |
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1914.3.1 | 大田郡の設置 総督府令111号により道の府・郡・面の廃合を断行し、懐徳郡、鎮岑郡と公州郡県内面を廃合して大田郡が設置され、懐徳邑内にあった郡庁が大田(現元洞)に移転 |
1935.10.1 | 大徳郡の創設 総督府令112号により1932年忠清南道庁が公州から大田邑に移転して急速に発展し、大田邑が府に昇格することによって大田郡が廃止され、大田府の残余地域に大徳郡が創設された。 |
1949.8.15 | 法律第32号により解放以降地方自治法が実施され、大田府を大田市に改称し、忠清南道の1市14郡のうち、大徳郡が属することになる |
1963.1.1 | 法律第1175号によって大徳郡の一部が大田市に編入 柳川面、懐徳面の3里(大禾里、悟井里、龍田里)、山内面の4里(玉渓里、三丁里、虎洞里、加午里)が大田市に編入 |
年代 (年月日) | 行政区域の変遷史 |
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1973.7.1 | 青銅器~朝鮮時代 北面と儒城面がそれぞれ新灘津邑と儒城邑に昇格 |
1983.2.15 |
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1987.1.1 | 大統領令第120007号により鎮岑面鶏山里が大田市に編入 |
1989.1.1 | 法律第4049号により大田直轄市に編入、大徳区を設置 1邑6面81法定里のうち、鎮岑面南仙里を除いた大徳郡一円全てを編入すると同時に、新灘津地域の4洞と梧井洞、大禾洞、懐徳1洞、懐徳2洞の8行政洞を管轄する大徳自治区を設置 |
1990.1.1 | 中里洞分洞 大徳区条例第107号により懐徳2洞を懐徳2洞と中里洞に分洞して9行政洞になる |
1991.9.1 | 法洞分洞 大徳区条例第171号により中里洞を中里洞と法洞に分洞して10行政洞になる |
1995.1.1 | 大田広域市大徳区に改称 法律第4789号、地方自治法の改正で大田直轄市大徳区を大田広域市大徳区に改称 |
1996.1.1 | 法2洞分洞 大徳区条例第296号により法洞を法1洞と法2洞に分洞して11行政洞になる |
2003.2.1 | 懐徳1洞を懐徳洞に名称を変更し、懐徳2洞を比来洞と宋村洞に分洞し、大徳区条例第574号により懐徳1洞を懐徳洞に名称を変更し、懐徳2洞を比来洞と宋村洞に分洞して12行政洞、26法定洞を管轄する行政区域として現在に至る |